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ホツマツタエのおもしろ記事(23)『枕詞』

2013-01-18 15:04
ホツマツタエのおもしろ記事(23)  枕詞



「まくらことば」とは「枕とする言葉」である。
「まくら」は「(頭の) 下に敷くもの・先に置くもの・土台」だから、「まくらことば」とは「先に置いて主たる言葉の土台とする言葉」という意味である。
ホツマにはたくさんの枕詞が出てくるが、幾つかについてはその由来を説明している。



【あしひき】

ホツマは最初に「あしひき」の由来について説明している。これはイザナミの死とそれに対するイザナギの行動が元となっている。かなり込入っていてしかも深い。
「あしひき」は「やま」に掛かる枕詞だが、「やま」は「山」ではない。なんとこの「やま」は、もともとは「よみ (黄泉)」と「やまと (和)」なのである。

一つは、イサナギが、焼け焦げて死んだイサナミの姿に驚愕して『足を退き』、またイサナミが放った八人の鬼霊 (黄泉醜女) により、黄泉から『足を退かされ』帰ったことによる。
この「足退く」は「~から手を引く・身を引く」と同じで、「離れる・しりぞく」の意。「よみ (黄泉)」は「やま (病・疚)」「やみ (闇)」などの変態である。

もう一つは『葦引き』で、二神が葦原の葦を引き抜いて田を拓いたことを言い、これは政治不在のため荒廃していた民心を調えたことの喩えである。
ヤマト」は「中国 (なかくに)」の別名であるが、「中央」という意味と、もう一つ「和・調和」という意味がある。荒廃していた日本の中央の国に、二神の「葦引き (草取り・準備作業)」によって調和がもたらされたという意味である。

『足退きの黄泉』であり『葦引きのヤマト』なのである。


『髻の黄楊櫛 辺歯を 灯とし見れば 蛆 集る "厭や 醜めき 汚なき" と 足 退き 帰る』ホツマ5文

『鬼霊に追わす 善し悪しを 知れば足退く 黄泉境』ホツマ5文

『禊に民の調ひて イヤマト 徹る 葦引きの 千五百の生田の 瑞穂 成る マトの教えに かかんして のん アワ国は てん ヤマト 引きて開るき 葦原の 歌も悟れよ マト道の 徹らぬ前の 葦引の 枕言葉は 歌の種』ホツマ5文

『千五百の葦も 皆 抜きて 田となし 民も 賑えば ヰヤマト 徹る ヤマト国』ホツマ23文

『垂の勇[死の諌]は 妻の殯を ミクマノの 神の諫めの 足ぞ退きける』フトマニ127



【しまつとり】

「しまつとり」は「う」にかかる。
カナサキ (宇都志日金折命) の遠祖に「シマツヒコ」という人がいた。シマツヒコは近江国の安曇川で、朽木に乗る鵜の鳥を見て、初めていかだを造り棹を刺すことを覚える。これが船の元となる。
(安曇川は、別名を朽木川ともいう。)

『船は往にし代 シマツヒコ 朽木に乗れる 鵜の鳥の アヅミ川 行く いかだ 乗り  竿刺し 覚え 船と成す』ホツマ27文



【おきつとり】

「おきつとり」は「かも」と「ふね」にかかる。
上記「シマツヒコ」の子に「オキツヒコ」という人がいた。オキツヒコは鴨を見て櫂を作り、鴨船を開発する。
「鴨船 (かもぶね)」というのは、鴨が足を前後に掻いて泳ぐように「櫂で漕ぐ船」をいう。対馬では今でも大型の舟を「ワニ」、小型のを「カモ」と言うそうだ。

『子のオキツヒコ 鴨を見て 櫂を作れば』ホツマ27文




参考サイト:http://gejirin.com/hotuma05.html
     :http://gejirin.com/hotuma23.html



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ホツマツタエのおもしろ記事(22)『黄泉』

2013-01-18 09:06
ホツマツタエのおもしろ記事(22)  黄泉



「黄泉」は「よみ」または「よもつ」と読み、死者の魂 (たましゐ) が行く所とされている。これはほぼ正しい。より正確には「しゐ」が行く所である。「たま」は黄泉には行かないのだ。


ホツマにおいては「たましゐ」は「魂魄」で、「たま」と「しゐ」は別物である。
「魂魄」は「こんぱく」とも言い、『Wikipedia -魂魄-』には次の説明がある。

中国の道教では魂と魄(はく)という二つの異なる存在があると考えられていた。魂は精神を支える気、魄は肉体を支える気を指した。合わせて魂魄(こんぱく)とも言う。魂と魄は易の思想と結びつき、魂は陽に属して天に帰し(魂銷)、魄は陰に属して地に帰すと考えられていた。


上の説明は、ホツマの言う魂・魄 (たま・しゐ) をほぼ完全に言い表している。

ホツマツタエ解読ガイド -タマシヰ-
魂は、ムナモト (陽元=日) を起源に持つ陽のエネルギー体で、魂の緒と協働して人の意識・精神・こころとなる。魄は、ミナモト (陰元=月) を起源に持つ陰のエネルギー体で、肉体を形成する。
魂は、天元神が下す「魂の緒」を介して魄と結合し、人はこの結合によって地上での生命を得ている。地上での生命が終わるとこの結合が解け、魂はムナモトに、魄はミナモトに、魂の緒は天元にそれぞれ還る。




人が死ぬと、魂はムナモトに、魄はミナモトに還るのだが、ムナモトとは「太陽」であり、ミナモトとは「月」なのである。

『魂の緒も 解けてムネカミ ミナモトへ 魂・魄 分けて 神となる』ホツマ13文

『背のムナモト 日と丸ろめ 妹のミナモト 月と凝り』ホツマ14文

『陽は軽ろ清く 天と成り 陰は重り凝る 地の球 背のムネは 日輪なる 妹のミナモト 月となる』ミカサ6文


そして、ミナモト (陰元) = 月 (太陰) = 黄泉 なのである。


「よみ」は、「よひ (宵)」「やみ (闇・病)」「よる (夜)」などの変態で、
これらは「陰・暗・下・夜・月」を表し、「陽・明・上・昼・日」に対する。
「よもつ」は、「よも (黄泉) 」+「つ (方・州・処)」で、
「よも」は「よみ」の変態、「つ」は「区画・区分」を表す。


また「黄泉」は「したへ (下方)」とも言い、やはり「死者の行く世界」と説明されている。
あるいは「冥土 (めいど)」とも言い、「冥」は「暗・陰」、「土」は「下・地」の意である。
これらは「陽は軽く上に昇り」、対して「陰は重り凝って下に沈む」という概念から来ている。




イザナミは自ら生んだカグツチの火に焼かれ、黄泉の住人となった。
失意のイザナギはその夜、神となって (幽体離脱して) イザナミに会いに行く。あるいは自殺を図って臨死体験の最中だったのかもしれない。イサナミは「おいで、おいで」はしなかった。イザナギを拒絶する。八人の鬼霊 (黄泉醜女) を放って、イサナギを黄泉平坂の向こう側 (現世側) まで押し戻す。

『アマテル神を天君とするまでは、あなた一人になっても世を治めていかなければ、他に代りはない。ここであなたまで世を去れば、再びオモタル政権断絶後の秩序のない国に戻ってしまう。』

これがイザナミの言いたいことだった。鬼霊から逃げている内、いつのまにか黄泉平坂に立っていたイザナギも、イザナミの真意を悟る。それはイザナギ自身も、百も承知していることだった。


「よもつひらさか」は「黄泉平坂」と漢字が当てられているので、「平らな坂」という訳のわからん坂になっているが、
「ひら」は「へり (縁)」の変態で、「さか」は「境・界」である。
だから「黄泉と現世の縁にある境い目」の意で、「黄泉辺境」の方がふさわしい。
つまり「三途の川」と同じである。



ここで二人は「言立ち (宣言)」する。

『麗わしや かく為さざらば 千頭を 日々に縊らん』

[ よかった。こうしてくれなかったら、秩序なき世に戻ってしまい、日々千人の堕落した臣を殺さねばならないところでした。 ]

『麗わしや 我 その千五百 生みて誤ち無き事を守る』

[ うんよかった。例え毎日千人の臣を失うような事態になっても困らぬよう、我は日々千五百人の臣を育てていこう。 ]

(注:『頭 (こうべ)』は「民の上に立つ司」の意で、臣を指す。)


この言立ちは、二神がこれまで諸国を巡って敷き直してきた「経矛の道」を、イザナギ一人になっても堅持して世を治めてゆくことの決意を表したものなのである。

イサナミは、調の道に逆らう者を排除する「逆矛」を象徴し、そしてこれが「隈の神 (熊野神)」の意味である。イサナギは、民を導き治める実戦部隊の臣を育てる「調の教え」を象徴し、これが「治汚の神 (多賀の神)」の意味である。



こうして現世に戻ったイザナギの心には、もはや迷いはなかった。



参考サイト :http://gejirin.com/hotuma05.html
      :ホツマツタエのおもしろ記事(12)『天地創造』



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